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81年の訪問時には、クライスラー救済法案が議会を通るかどうかの瀬戸際にあったため、平日なのに、本社は実質的に休業しており、シーンと静まりかえった異常な風景で、3階のVIPルームの秘書もほとんどレイオフ(一時帰休)されていた。
筆者の廊下を歩く靴音だけがコツンコツンと反響し、何となく不気味な雰囲気であった。
その後、この時のクライスラー危機とデトロイト不況が引き金となって日米自動車貿易摩擦が起こった。
誕生したばかりのレーガン共和党政権と日本政府との間では、摩擦回避のための協議が行なわれた。
というのは、日本車の対米輸出が爆発的に増え、例えば日米間の貿易品目は、1975年を境にそれまでの鉄鋼から自動車がトップとなり、1980年当時は年間230万台に米国金融バブルに踊った自動車産業達し、このままいけば300万台を超えようとしていた。
こうしたなか、デトロイト不況による大量失業の発生は、しばしば日本車のせいにされることが多かった。
レーガン政権は、基本的に自由貿易尊重を建て前としていたから、一方的な自動車の輸入制限や関税引上げをするわけにはいかない。
そこで日本政府、とくに日本の通産省は、米政府の苦しい立場に配慮し、貿易管理令という古い法律を適用して、対米輸出の自主規制に踏み切った。
1982年から始まった乗用車輸出自主規制では、全体として輸出を168万台に制限したのである。
この自主規制は、その後米国市場の回復により180万台から230万台へと修正され、85年以降は230万台がずっと続いたが、この措置は、表面上は日米自動車貿易摩擦の激化に歯止めをかけると同時に、デトロイトのビッグスリーに立ち直りの時間的猶予を与えたと、当時はいわれたものである。
米国の輸出規制でトヨタ、日産、ホンダにカルテル利益″しかし今から考えると、この乗用車輸出の自主規制は、ひとつには輸出台数を制限したことによって一種の輸出カルテルの形成を促進することになり、もうひとつには輸出を増やせない分を現地生産で補うため、現地工場の建設に弾みがつく結果を招いたことにもな2gる。
日本自動車メーカーの現地工場は、ホンダ、日産を皮切りに、やがてトヨタ、マツダ、三菱、スズキと85年前後に次々と出現。
当初は北米中心だったが、やがてカナダやメキシコにも現われ、90年代に実現したNAFTA(北米自由貿易協定)の後押しもあって、日本の現地工場の生産規模が拡大、やがて2002年になると年間250万台を超えることになっていった。
日本の自動車メーカーにとって、このことの意味は大きかった。
輸出と現地生産、そして国内向け生産の3つでバランスがとれ、それ以前の輸出偏重がなくなったからである。
輸出偏重による為替レートの不安定に対して、為替フリーの体制となり、その結果、アメリカ市場は新車登録だけでいうと、2000年以降になると、1700万台という歴史的数字を記録するまでになる。
これだけの総登録台数の増加は、ひとつには現地生産台数の増加(ゼロから300万台以上)と輸入車の増加(欧州車、日本車、韓国車全体で80年の340万台から07年の800万台)によって実現されたものであり、このうち現地生産車の8割と輸入車の約7割は、日本車によるものである。
この輸入車の増加は、日本車だけでなく、ドイツを中心とする欧州車と、現代などの韓国車によってもたらされた面もある。
日本車の輸出は、1985年に開かれたG5(米国、2タ米国金融バブルに滴った自動車産業日本、ドイツ、イギリス、フランスの先進五カ国が主催した「先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議」。
俗にプラザ合意と呼ばれる)以降、円高によってブレーキがかかっていた。
現代などは、その間隙を縫って米国市場への輸出を急増させていた。
日本の自動車メーカーは、乗用車輸出規制を15年以上にわたって続けたが、通産省の主導によって、北米市場の拡大に応じながら輸出規制の総台数は拡大され、168万台1180万台1230万台と増えていった。
この規制の総台数を、各メーカーにどう割り振るかが大問題だったが、通産省は自主規制の始まる直前の市場シェアで原則的に決めた。
その結果、トヨタ、日産、ホンダの3大メーカーが優位を占め、それは今日でも続いている。
日本政府が日米貿易摩擦に配慮して乗用車輸出の自主規制に踏み切ったいきさつはすでに見たとおりだが、これがかえって、日本車に対する需要は強いのに供給不足を生み出すという、輸出カルテル効果をもたらした。
本来日本車は、エントリーレベルと呼ばれて低価格帯に強かったのが、供給不足のために値上がりが避けられなくなった。
当時、6000ドル前後で売られていたカローラやサニー、シビックなどが、8000〜9000ドル近くで売られ、筆者が直接見聞きしたところでは、カリフォルニアの日本車ディーラーの店頭では、メーカー希望小売価格が1万1000ドルだったトヨタのクレシーダ(マークU)が、なんと1万7000ドルと、6000ドルものプレミアムを上乗せして売られていた。
こうして、乗用車輸出の自主規制にあれほど猛烈に反対した日本の自動車業界の思惑をよそに、輸出台数が制限されたことで、思わぬ超過利潤をもたらすことになった。
ただ日本の自動車メーカーは、すぐに配当で社外流出させる前に、この利益を現地工場の建設と新車の開発費に充てた。
とくに新車開発に関連して、エンジン開発とエンジン工場に重点的に投資し、エンジン関連だけでも、およそ6000億円を11社で投資し、コンパクトで効率のよいエンジンを次々と登場させた。
そして、アメリカが景気回復すると、高度化した消費者のニーズに焦点を当て、カローラ、サニー、シビッククラスのサブコンパクト車から、カムリ、アルディマ、アコードのようなコンパクトクラスの中級小型車に重点をおく戦略をとり、輸出台数の自主規制で制限されている不利益を、台当たり利益でカバーすることに成功する。
以上の経緯を見てもわかるように、日本乗用車の自主規制は、アメリカビッグスリーに立ち直りの機会を与えると同時に、要するに日本のメーカーにも、カルテル利益をもたらしたのである。
米国金融バブルに踊った自動車産業日本メーカーも北米で生産-大型SUVのシェアはなぜ上昇した?一方で、U日本車の急増に歯止めがかかった問、1983年以降のビッグスリーの業績回復は著しく、とくにGMの]カーシリーズ、フォードのトーラスシリーズ、クライスラーのKカーシリーズなどが好調な売れ行きを見せ、同時にそれ以前の日本車とアメリカ車の品質ギャップが目に見えて縮小し、アメリカ車の古いイメージが一新されたかに見えた。
それ以降、とくに1985年を境として、もうひとつ大きな北米自動車市場の構造変化が、総販売台数の増加と並行して拡大していく。
それはライトトラックと呼ばれる、セグメントの市場が急増したことだった。
まず、乗用車輸出の自主規制とほぼ同時に、アメリカ国税当局が小型トラックをキヤヴシャシー(シャシーに筒単な荷台だけつける)の形で輸出していた日本のメーカーに、それまでの乗用車並みの関税率5%でなく30%台の関税をかけた。
それによって、従来、日本車輸出の中でかなりの比率を占めていたピックアップトラックを輸出できなくなった。
とくにピックアップトラックは、ダットサンやトヨタなどが北米市場に初めて持ち込んだものだったが、関税が急上昇したことで、日本勢の手を離れたのだ。

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